**事務局長ブログ**水と生きる。
2015.05.15
「20世紀は戦争の世紀、21世紀は水の世紀」と言われる。
人類史上類を見ない規模で、地球上のあらゆる地域が戦闘に巻き込まれた20世紀。次の世紀は、私たち生きものにとってなくてはならない、水資源をめぐる争いが発生している。
「水の世紀」とは、1995年、当時世界銀行の副総裁イスマル・セラゲルディンが「21世紀は水をめぐる争いの世紀になるだろう」と予測したことに端を発する。今日ではこの言葉は、水不足・水汚染・水紛争などを包摂する概念として定着している。
ニジェール川を想う
2009年、mudefの前身であったChild AFRICA時代、西アフリカのマリを訪問する機会があった。乾季のマリは水を確保するのが非常に難しい。清潔で安全な水を得ることができる人の割合は全国平均で60%、農村ではその割合は48%にとどまる。訪問した先では、水を井戸や、川、池から得ていた。
村では、水を汲ませてもらったが、井戸に覆いがなく、ゴミや砂、細菌、寄生虫が入り込んでいるためか、くみ上げた水は白く濁っていた。
村にある井戸の多くは手掘りのため、10-15m程度の深さまでしか掘れず、トイレで使われた水や、農薬などの有害物質が土を伝わって水の中に入り込んでしまうおそれもある。
訪問した村の中では気候変動の影響か、井戸が枯渇してしまった村もあった。
井戸の枯渇は、かれらの労働時間を阻害する。水汲みが伝統的に女性の仕事とされているアフリカでは、水へのアクセスが困難な地域では女性が、きれいで安全な水を求めて10キロメートル以上も歩くことも珍しくない。サハラ以南アフリカでは年間400億時間が水汲みに費やされているが、これはフランスの全労働力の1年分に匹敵するという試算もあるほどだ。
滞在中に宿泊した場所は、首都バマコから車で半日走った先にある、モプティ。
マリのニジェール川とバニ川の合流地点にある町で、かつて「ジェンネ」と「トンブクトゥ」の2つの都市をつなぐ重要な港として、フランス植民地時代に発展した町であり、現在ではマリ第2の都市となっている。
豊かな川の流れと、季節ごとに移動しながら魚を追いかける、漁民ボゾ族のキャンプは、水が私たちの生活にとってなくてはならないものであることを教えてくれる。彼らと似たような風景を以前南部のザンビアでも見たことがあった。雨季になると発生する、期間限定の湖ができるのを待って、岸辺(となるであろう場所)で待機しているのだ。季節ごとの雨量が、かれらの生活を決定づけていた。
しかしそのモプティも、訪問後、治安の悪化により訪れることは困難となった。
その最大の理由は北部でのイスラム過激組織の勢力拡大だ。特にアラブの春以降、武器や傭兵がサハラ以南で出回っていることもある。
問題が深刻なのは、これらの問題は宗教や政治をめぐるものである一方で、水資源をめぐる側面を持っていることだ。しばしば指摘されるが、気候変動の影響か、枯渇する水資源をめぐり遊牧民と
日本ではめったに報道されないマリの治安悪化の情報を聞くと、いつもニジェール川の雄大な夕焼けを思い出す。あの景色は今はどうなっているのだろう。
水と健康
2014年、mudefの推進する蚊帳の配布プロジェクトとして、アフリカ最西端の国、セネガルを訪れた。セネガルでは首都ダカールで、蚊帳の配布を行ったのだが、配布したエリアは、所謂低所得者が住む地域で、この地域はしばしば洪水の犠牲となる地域でもあった。
ダカール市内でも下水道施設が整っていなかったり、もともと湿地地帯を住宅として使用していたことから、洪水になると、なかなか水が引かない。結果として水たまりから感染症が起きたり、健康への被害をもたらすこととなる。
水は単に枯渇が問題なのではない。生活環境への影響が問題なのだ。そしてその影響によっては、人体にも影響をもたらすことになる。
mudefで支援しているマラリア予防の蚊帳も、この水とは無関係ではない。
水たまりで発生するボウフラは、成長すると人を吸血する訳だが、それによってマラリアの感染が引き起こされる可能性もある。2012年に大雨によりダカールで被害が出たときも、セネガル政府は、マラリア流行の危険性を懸念していた。
洪水の跡。1年以上たっても残っていた。
低所得地域。向こうに見える川が洪水を引きおこした。
水と生きる。
先日、「ブルー・ゴールド狙われた水の真実」というDVDを観た。
世界各地で、水資源が多国籍企業の投資の対象となり、開発途上国に水道事業の民営化が試みられ、水をめぐる利権争いも発生している。文字通り、私たちは「水の世紀」に生きている。
水は当たり前にあるのではない。私たちが口にできる水は、地球上でわずか3%。その3%が私たちの命を支えている。
アフリカの視察で見た国々は、水があらゆる問題の根本にあるのだということを教えてくれる。単に子どもの教育や女性のエンパワーメントが問題なのではない。彼らが力をつけるためには、まず健康と安全が必要であり、そのためには、清潔で安全な水の確保が不可欠だ。
私たちは当たり前にコンビニで水を買い、飲んでいる。
しかしよく考えてみよう。水を買うという行為そのものの意味を。かつてはなかった、この「水を買う」ことは、水が人類共通の財産ではない、ということだ。
もう一度考えてみよう。
本当に、今わたしたちが手にしているペットボトルの水は必要なのか、を。
「ブルー・ゴールド狙われた水の真実」詳細はこちら
*2009年マリ訪問についてはこちら
*2014年セネガル訪問についてはこちら