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MDGs blog

**事務局長ブログ** 貧困とは何だ

最近「貧困」という言葉をよく耳にする。

6人に1人の子どもが貧困家庭にいること、

2011年末の年越し派遣村の若者たち、

2012年には生活保護を受ける世帯が200万世帯を突破したこと、

メディアでもたまに生活費がなく餓死した人のニュースも耳にする。

2012年には失業中の姉と知的障害のある妹がガスも電気も止められたマンションの一室で病死・凍死した姿で発見されるという痛ましい事件もあった。2010年に発生した大阪市のマンションで2児が母親の育児放棄によって餓死した事件も記憶に新しい。同事件を題材にした緒方貴臣監督の「子宮に沈める」を観たが、何度途中で目を背けたくなったか。各国の映画祭で失神者が続出したという触れ込みも納得する作品だ。

貧困と貧乏はちがう

貧困について様々な場所で語られるようにもなった。

そのこと自体は大切だ。これまで公になりにくかった貧困の現場が知られ、私たちの社会で何が起きているのか知ることは必要な事でもある。

他方、気になるのは、貧困と貧乏は違うという区別がないままひとくくりに語られること。

「貧乏でも頑張る私」というとらえ方がある。テレビ番組でもお金がないけど頑張って工夫する女性を取り上げる番組もある。

私はこの番組が非常に好きではない。好きではないどころか、かなり嫌いの部類に入る。

貧しいけど頑張ろうというのは良い。しかしそれは問題をすり替えているように見えるからだ。

地方に行くと所得が低くても仲間同士や家族のつながりで生活を楽しんでいる集団がいる。所得自体は平均所得にはるかに及ばないが、相互扶助の関係が出来上がっているので、家族や同級生といった「仲間」と助け合い、十分に生活できる。プア充女子とも呼ばれる女子がそれだ。

所得は低いが生きていけないレベルではない、むしろそれを楽しんでいる人たちは確実に存在している。テレビに登場する女子もその一形態なのだろう。

ただ問題は、そのラインから外れている人がいることだ。最近の国内の貧困問題の根幹はここにある気がする。

貧困とは社会からの構造的な排除

年越し派遣村で一気にメディアに登場するようになった反貧困ネットワークの湯浅誠さんは「貧困とは、社会からの構造的な排除である」と述べている。単なる所得が低いことではなく、一度入り込むと抜けださせない蟻地獄のようだとも。

同じ低所得でも、頼れる家族や仲間、地域がいるのとそうでないのとでは、まったく条件が違うのだ。さらに所得があるとしても、企業の正社員として将来的には上昇することが想定されているようなセーフティネットの中にいるのと、不安定な派遣社員やフリーターでも異なる。今私たちが考えなければならないのは、この不安定な状況に置かれた人々が直面する「貧困」だ。

湯浅さんによれば、貧困の物差しとして「5重の排除」が掲げられている。

教育をドロップアウト、もしくは貧困で通えない「教育課程からの排除」。教育はすべての人にとって将来的投資だ。この投資がなされない結果、将来の職業の選択肢が狭まるほか、高所得の職業に就くことも困難となる。

派遣社員やフリーターで働く結果、福祉を受けられない「企業福祉からの排除」。

困ったときに支援してくれる家族や親せきがいなかったり、親も貧困であるために頼れない「家族福祉からの排除」。家族福祉から離れているということは、一つ目の教育課程からの排除にも直結しやすい。

企業福祉からも家族福祉からも排除された人が本来求めるべきは公的福祉ではあるが、現在その福祉の窓口も政権による「水際作戦」によって狭められている。その結果、「公的福祉からの排除」が発生する。

あらゆる窓口から排除された個人が向かう先は、「自分自身からの排除」だ。すべて自分のせいなんだとあきらめたとき、あらゆる支援も彼や彼女には届かなくなる。

現在社会の大きな課題ともなっている貧困は、排除の構造によって完成しているのだとも言えるだろう。

貧困は自己責任か

貧困を自己責任で語る人もいる。

数年前に所謂芸能人の親の生活保護の不正受給問題が起きたときもそのような議論が一部で発生していた。調子に乗ってプロジェクトチームまで作った政治家もいる。しかし実際の不正受給率は1%にも満たない。そんなわずかな不正を理由に「生活保護は削るべき」と発言するとき、その発言は貧困の現場への理解と弱者への視点を自ら放棄したのだ。

しかし病気になった時、頼っていた家族や親せきが亡くなった時、働きたくても貧しさゆえに教育がなくて、スキルがないから働けない時。働きたくても子どもが小さくて、預けられる施設もなくて、働けないとき。

働けたとしても賃金が低すぎるために生活できない時。それも自己責任なのだろうか?

このときに手を差し伸べるのが、政府の本来の仕事なわけだ。

しかし今なお、厳しい視線がそこにある。子どもを餓死させた母親を批判することはあっても、そこに何があったのが、どんな経緯で育児放棄が発生したのか、想像ができないこと。

社会を知るときに必要なのは想像力だ。

貧困とは何だ?

私たちと本当に関係はないか?

2015年9月のNYの国連総会で採択されるポストMDGsでは貧困削減は引き続き大きな柱となる。同時にこれまで途上国のみ対象となっていたMDGsと異なり、先進国も適用の対象となる。

国内の貧困問題が他国との比較の中で語られるようになることが想像される中で、mudefでは引き続き貧困という大きな問題を考えていければと思う。

文責:長島美紀